『ジョーカー』とは?|どんな映画?
『ジョーカー』は、アメリカのDCコミックに登場する悪役“ジョーカー”を主役に据え、彼がいかにして悪のカリスマへと変貌していったのかを描くサイコロジカル・スリラーです。
バットマンシリーズの外伝的位置づけにあるものの、本作はスーパーヒーロー映画というよりも、社会から疎外された男の心の闇と狂気を追う重厚な人間ドラマとして構成されています。
舞台はゴッサム・シティという架空の都市。閉塞感と暴力が渦巻く街で、貧困と精神疾患に苦しむコメディアン志望の男アーサー・フレックが、徐々にジョーカーへと変貌していく過程を、現実と妄想の狭間で描写します。
重苦しい空気感と陰鬱な映像美、そしてホアキン・フェニックスによる鬼気迫る演技が高く評価され、アメコミ原作映画としては異例のヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞しました。
一言で表すなら――「狂気の中に生まれたカリスマが、笑いと涙で世界を覆す“反英雄の誕生譚”」です。
基本情報|制作・キャスト/受賞歴・公開情報
タイトル(原題) | Joker |
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タイトル(邦題) | ジョーカー |
公開年 | 2019年 |
国 | アメリカ |
監 督 | トッド・フィリップス |
脚 本 | トッド・フィリップス、スコット・シルヴァー |
出 演 | ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ、フランセス・コンロイ |
制作会社 | ワーナー・ブラザース、DCフィルムズ、ジョイント・エフォート、ブロン・クリエイティブ、ヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズ |
受賞歴 | 第76回ヴェネチア国際映画祭 金獅子賞受賞/第92回アカデミー賞 主演男優賞・作曲賞 受賞 他多数 |
あらすじ(ネタバレなし)
舞台はゴッサム・シティ。貧困と犯罪が蔓延し、人々の心に余裕がなくなったこの街で、ピエロの派遣仕事をしながら、スタンダップ・コメディアンとして成功する夢を抱いている男、アーサー・フレック。
心優しい一面を持ちながらも、彼は精神的な病を抱え、日々の生活でも厳しい現実に直面しています。公共サービスの削減や人々の冷たい視線によって、徐々に社会との接点を失っていくアーサー。
そんな彼の内面で、何かが崩れ始める瞬間が訪れます。道化として笑いを届けようとする彼が、いつしか“笑い”に翻弄されていく……。
果たして、彼はどこへ向かうのか?そして“ジョーカー”とは一体、どんな存在なのか?
社会の片隅で見過ごされてきた一人の男がたどる運命は、観る者の心に深く問いを投げかけます。
予告編で感じる世界観
※以下はYouTubeによる予告編です。
独自評価・分析
ストーリー
(4.0点)
映像/音楽
(4.5点)
キャラクター/演技
(5.0点)
メッセージ性
(4.5点)
構成/テンポ
(3.5点)
総合評価
(4.3点)
ストーリーは社会の歪みと個人の崩壊を丁寧に描きながらも、一部に説明過多や唐突な展開も感じられ、4.0点と評価しました。映像と音楽は重苦しい世界観を見事に表現しており、特にヒルドゥル・グドナドッティルによる楽曲が感情の波を強く後押しします。ホアキン・フェニックスの演技は圧巻で、まさに“ジョーカー”として歴史に残るパフォーマンスでした。メッセージ性も深く、現代社会に対する鋭い批評を含んでいますが、あまりにも暗く重いために賛否を呼ぶ要素も。構成・テンポについては後半の急展開でやや整合性を欠く印象があり、全体としては4.3点の高評価となりました。
3つの魅力ポイント
- 1 – 鬼気迫るホアキン・フェニックスの怪演
本作最大の見どころは、ホアキン・フェニックスの圧倒的な演技力。痩せ細った肉体、狂気に満ちた笑い、そして涙の演技――すべてが観る者の心を震わせます。とくに、鏡の前でダンスをするシーンは、アーサーという人間の内面が滲み出るような瞬間であり、演技という域を超えた表現が評価されました。
- 2 – 社会のひずみを映す物語構造
貧困、差別、医療制度の崩壊、情報の偏向――アーサーの変貌を通じて映し出されるのは、現代社会そのものの姿です。決して他人事ではない現実が、観る者の胸に突き刺さり、強い共感や不安を呼び起こす力を持っています。
- 3 – 音楽と映像が作り出す陰鬱な美
ヒルドゥル・グドナドッティルによる重厚なチェロの旋律が、アーサーの内面を見事に代弁しています。また、荒廃したゴッサム・シティを表現する映像も高く評価されており、色彩や構図、照明を通じて「孤独の美学」が表現されています。
主な登場人物と演者の魅力
- アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)
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本作の主人公であり、“ジョーカー”へと変貌していく男。ホアキン・フェニックスは、極端な減量と徹底的な役作りでこのキャラクターに挑み、精神的・肉体的に追い詰められた男の狂気と哀しみを圧倒的な存在感で体現しました。特に、笑いが制御できない神経疾患という設定を、説得力のある表現で演じ切った点は絶賛され、アカデミー主演男優賞を受賞する原動力となりました。
- マーレイ・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)
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人気テレビ司会者として登場するマーレイは、アーサーの憧れの存在でありながら、物語の重要な転機にも関わる人物。ベテラン俳優ロバート・デ・ニーロは、かつて自ら主演した『キング・オブ・コメディ』を想起させる役柄で登場し、物語のメタ構造に深みを与えるキャスティングとなっています。
- ソフィー・デュモンド(ザジー・ビーツ)
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アーサーの住むアパートの隣人女性で、彼の妄想と現実が交錯する存在。ザジー・ビーツは、彼女の持つ現実的な温かみと、アーサーの幻想における理想像とのギャップを巧みに演じ分けており、観客にも“信じたくなる希望”を抱かせるキャラクターとして印象を残しました。
視聴者の声・印象













こんな人におすすめ
逆に避けたほうがよい人の特徴
明るく爽快なエンタメ映画を期待している人
暴力描写や精神的に重いテーマが苦手な人
アメコミ作品=ヒーローアクションと思っている人
テンポの速いストーリー展開を好む人
観終わったあとに前向きな気持ちになりたい人
社会的なテーマや背景との関係
『ジョーカー』は、単なる悪役の誕生譚ではなく、現代社会が抱える構造的な問題を映し出す鏡のような作品です。物語の舞台となるゴッサム・シティは、貧困、格差、福祉の崩壊、精神疾患への無理解といった社会的な病理を象徴的に表現しており、現代の都市が直面する現実をそのまま反映しています。
アーサー・フレックという人物は、そのような社会のひずみによって追い詰められた“弱者”の象徴です。彼は精神的な不調を抱えながらも、社会制度の縮小によってカウンセリングも薬も打ち切られ、誰にも理解されず孤立していきます。その姿は、「自己責任」や「勝ち組・負け組」という二極化した価値観に苦しむ多くの現代人に重なるでしょう。
また、マスメディアやSNS的な空間における“見せ物化”という問題も作品に深く組み込まれています。アーサーはテレビに出演することで一時的に脚光を浴びるものの、その扱われ方は極めて消費的・一方的で、「誰かを笑いものにしてでも視聴率を取る」というメディア構造の暴力性が露呈しています。
さらに、作中では貧困層による暴動や“ピエロの仮面”が拡散する様子が描かれますが、これは匿名性を伴った集団的怒りの爆発とも読め、現代のポピュリズムやSNSを通じた社会運動のメタファーとも捉えられます。
『ジョーカー』が観客に問いかけているのは、ジョーカーという人物の是非ではなく、「この社会がジョーカーを生み出す土壌を持ってはいないか?」という根源的な疑問です。その問いは、今の時代に生きる私たち全員に向けられたものにほかなりません。
映像表現・刺激的なシーンの影響
『ジョーカー』は、映像や音響、演出面でも非常に高い完成度を誇る作品です。色彩設計は全体的に暗く、緑や黄土色を基調としたトーンで統一されており、ゴッサム・シティという退廃的な都市の雰囲気を余すところなく描き出しています。また、カメラワークも固定と手持ちを巧みに使い分け、アーサーの孤独や不安定な心理を表現するのに貢献しています。
音響面では、ヒルドゥル・グドナドッティルによる重低音のチェロが心に響き、アーサーの内面をなぞるように感情の起伏を演出しています。音楽と映像が融合するダンスシーンなどは象徴的であり、視覚的にも聴覚的にも没入感を高める設計がなされています。
一方で、本作には刺激的な暴力描写が複数含まれています。銃による突発的な攻撃や、流血を伴うシーンは唐突かつ衝撃的であり、精神的ショックを受ける可能性があるため注意が必要です。また、精神疾患や社会的孤立、差別といったテーマがリアルに描かれることで、観る者によっては強い不快感や心的負荷を感じることもあるでしょう。
性的な描写については直接的なものは少ないものの、妄想と現実が交錯する演出の中で、人間関係にまつわる微妙な違和感が描かれ、それが心理的な緊張感を高めています。ホラー要素はありませんが、精神的に不安定な人物の視点で物語が進むため、終始どこか不穏で息苦しい雰囲気が漂います。
これらの表現はすべて、ジョーカーというキャラクターの背景や内面を描くうえで不可欠なものですが、鑑賞の際には十分な心構えと精神的余裕が求められる作品であることは間違いありません。
関連作品(前作・原作・メディア展開など)
『ジョーカー』は、DCコミックに登場する人気ヴィラン“ジョーカー”を題材とした作品ですが、原作の直接的な実写化ではなく、独立したオリジナルストーリーとして制作されています。そのため、観る順番に決まりはなく、本作単体で完結する映画として楽しむことが可能です。
ストーリー構造やキャラクターの描写は、1980年代の名作コミック『Batman: The Killing Joke』や『The Dark Knight Returns』などにインスパイアされたとされますが、公式に原作としてクレジットされているわけではありません。あくまで“ジョーカー”というキャラクターの神話的起源に触れる“もしも”の物語として位置づけられています。
また、アーサー・フレックの人物像や、舞台設定、演出スタイルには、過去の映画『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』からの影響が色濃く見られます。これらはいずれもマーティン・スコセッシが監督または製作に関わった作品であり、本作の制作にもスコセッシが初期段階でプロデューサーとして関わっていたことは有名です。
メディア展開としては、ワーナー・ブラザース傘下の放送チャンネルや配信サービスでの再放送・配信に加え、『ジョーカー』公開記念として特集番組や特別上映などが組まれることも多く、一種の“現代の神話”として独自の位置を確立しています。
シリーズ作やクロスオーバーを前提としない本作だからこそ、単独の映画作品としての完成度の高さが際立ち、初見の観客にも深く刺さる構成となっています。
類似作品やジャンルの比較
『ジョーカー』は、サイコロジカル・スリラーや社会派ドラマの要素を色濃く持つ作品です。同ジャンルで観る者の精神に訴えかける作品として、以下の映画がよく比較されます。
『タクシードライバー』(1976年)は、孤独なタクシー運転手が社会への怒りと狂気を抱えて暴力に走る姿を描いたマーティン・スコセッシの名作です。アーサー・フレックと同じく、“社会の片隅にいる男”の孤独が核となっており、作品全体に通じる閉塞感と退廃的な都市の描写が共通しています。
『キング・オブ・コメディ』(1983年)は、テレビ出演を夢見る男の妄想と現実が交錯していくストーリーで、ジョーカーの“スタンダップ・コメディアン志望”という設定にも強い影響を与えています。ロバート・デ・ニーロが演じたキャラクターが、『ジョーカー』では役柄を逆転して登場している点も興味深いです。
『アメリカン・サイコ』(2000年)は、社会的に成功している人物が裏では狂気に支配されていく様を描いており、主人公の二面性と精神の崩壊という点で共通点があります。表と裏の顔を持つキャラクター像に惹かれる人には非常に刺さる内容です。
『ナイトクローラー』(2014年)では、メディアの暴力性と個人のモラル崩壊をテーマに、成功欲に取り憑かれた男の転落を描きます。本作と同様に、社会との関係性のなかで“モンスター化していく人間像”が描かれ、視聴後の不快感や緊張感も近いです。
そのほか、『ファイト・クラブ』(1999年)や『シャッター アイランド』(2010年)など、精神の錯綜やアイデンティティの崩壊を扱う映画も、『ジョーカー』とテーマ的に深い共通性があります。
こうした作品群に共通するのは、「社会との断絶」「個人の内面の闇」「現代への批評性」です。『ジョーカー』が心に響いた方には、ぜひこれらの作品も手に取っていただきたい一本です。
続編情報
『ジョーカー』には、正式な続編が存在します。タイトルは『Joker: Folie à Deux(ジョーカー フォリ・ア・ドゥ)』で、2024年10月に全米公開、日本では同年10月11日に劇場公開されました。
本作はミュージカル形式を取り入れた異色の続編で、アーサー・フレックと新たな人物ハーレイ・クインとの関係を軸に描かれます。ハーレイを演じるのは歌手・俳優のレディー・ガガで、ホアキン・フェニックスは引き続きジョーカー役を担当。監督は前作に続いてトッド・フィリップス、脚本はフィリップスとスコット・シルヴァーのコンビが続投しています。
撮影は2022年12月から2023年4月にかけて行われ、音楽シーンでは1960~70年代のスタンダード・ナンバーを中心に構成されたジュークボックス・ミュージカル的演出が話題を呼びました。
物語はアーサーが精神病院に収監された後の世界を舞台に、法廷劇や恋愛幻想を交えた心理ドラマとして展開。前作の延長ではありながら、より幻想的でスタイリッシュな語り口が採用されており、ジャンルとしても“ミュージカル × クライムドラマ”という独自のスタイルを確立しています。
興行収入は全世界で2億ドルを超えるヒットを記録した一方、批評面では賛否が分かれ、ロッテン・トマトの批評家スコアは31%と厳しい評価も。結末では次なる“ジョーカー”の出現をほのめかす描写もあり、さらなる続編の可能性にも注目が集まっています。
まとめ|本作が投げかける問いと余韻
『ジョーカー』は、観終わった後に単なる“悪の誕生”という物語を超え、観客一人ひとりに「自分だったらどうするか?」という内省を促すような、非常に深い問いを投げかけてきます。
社会の中で見えにくい立場に置かれた人々、誰にも理解されずに声を上げることすら許されなかった個人が、どうやって“怪物”と化していくのか――そのプロセスは極端でありながらも、決して絵空事ではありません。本作は、善悪の単純な図式を覆し、社会構造の残酷さをえぐり出す鏡として機能しています。
そして、ジョーカーというキャラクターが持つ“笑い”というモチーフは、本来人々を癒すものであるはずが、彼にとっては痛みや孤独の裏返しとして描かれます。笑顔の裏にある苦しみ、表面的な明るさの奥にある絶望――そうした多層的な感情を掘り下げていく表現力もまた、本作の大きな魅力の一つです。
社会から排除された一人の男が、自分の存在を証明しようともがく姿を見て、私たちはただ「彼が悪い」と言い切れるのでしょうか? それとも、そこに少しでも自分自身の影を見てしまうのでしょうか?
『ジョーカー』が描くのは、特異な犯罪者の伝記ではなく、現代社会が内包する“見過ごされた声”の物語です。誰もが持ちうる脆さ、そして無視され続けたときに起こりうる変質。そのすべてが静かに、しかし確実に心の中に沈殿していく。
この映画のラストシーンを思い返すとき、胸の奥には言葉にできないざらつきとともに、「私たちはこの社会をどう見つめ、どう関わっていくべきなのか」という問いが、余韻として残り続けるのです。
ネタバレ注意!本作の考察(開くと見れます)
OPEN
『ジョーカー』は、物語全体がアーサー・フレックの視点で進行するため、観客は“現実と妄想”の境界線を見失うような感覚に陥ります。中でも印象的なのが、ソフィーとの関係がすべてアーサーの妄想だったと判明する場面。彼女が部屋でアーサーを見て驚くリアクションは、それ以前のすべての出来事が虚構だった可能性を示しています。
終盤のテレビ番組での事件、そしてアーサーが“ジョーカー”として群衆に担がれる場面も、彼の幻想ではないかとする解釈があります。精神病棟のシーンで映画が幕を閉じる構造は、「本作の全体が彼の頭の中の物語だった」とも読み取れる多義的な終わり方です。
また、「自分がトーマス・ウェインの息子である」という妄信も、彼の孤独と承認欲求から生まれた幻想と解釈できます。母親のカルテに記された“妄想癖”という診断、トーマス側の否定、そして養子縁組の書類など、現実的根拠は薄いにもかかわらず、アーサーはそれを信じようとします。この“父を求める”動機は、彼の人間らしさと同時に、危うさを象徴するものでもあります。
さらに、アーサーが“自分は存在していいのだ”と初めて感じた瞬間が、他者に注目されたテレビ出演時であったことは、承認欲求の極限化と暴力の結びつきを示唆しています。ここに、現代社会の“孤独”が引き起こす可能性のある危機が垣間見えるのです。
本作の考察において重要なのは、「彼がジョーカーになった」のか、「彼がジョーカーだった」という物語を我々が観たのかという構造そのものへの問いです。答えは映画の中にはなく、観る者の解釈によって結末が異なるという構造が、深い余韻を生んでいます。
ネタバレ注意!猫たちの会話(開くと見れます)
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